青木　悦の本

　40代になったばかりの女性、「家に帰りたくない」という。「高校一年生の娘が私を責めるから」と。
　食事のたびに「お母さん、今、煮豆一粒しか食べなかった。最低三粒食べなさい。味噌汁の中のダイコンが残ってる。最後まで、きちんと食べなさいよ」と言われるのだという。その口調はとても厳しくて、ふだんの娘さんの声とも違う、とてもカン高い声だという。

　この娘さんは、幼稚園から大学までエスカレーター式に上がることができるという、有名な私立女子校に入った。小学校からずっと〝いい子〟で、親の言うことを実によく聞いてくれたと、その母親は言った。「それが中学2年生の頃から拒食、過食を繰り返すようになり、体重も減り、立っていることも不可能になって、不登校になったのです。ずっとエスカレーター式で進学できると思っていたのに、中学に上がる時も、高校に上がる時も、結局は外部から入ってくる生徒とほぼ同じテストがあって、うちの娘は小学校に入ってからずっと塾通いでした。私は学校のシステムに問題があると思うのです」とも言う。

　これらの言葉の中に、たくさんの問題があることは分かる。そんな私学になぜ入らせたの?　幼い子どもにそんな学校を「選ぶ」ことなどできるはずもないし、小学校受験を決めたのは親の責任ではないの?　入学してからも懸命にがんばった娘さんの努力をどう考えるの?　なぜ途中でやめさせなかったの?　学校はどんな対応だったの?　それに対してあなたはどうしたの?　お父さんは何て言ってるの?………私の胸の中に疑問はあふれかえる。しかし、ぐっとがまんして母親の話を聴く。夫婦仲は以前からずっと良くないこと、長女に全ての希望を託して生きてきたこと。それなのに今、なぜ、こんな思いをしなければならないのかと、涙声になる。

　批判は簡単だ。しかし今、目の前で苦しむ人に、しかも長い時間をかけてこうなっている現状に対して、簡単なもの言いはできない。その他いろいろ聴いた後、とりあえずという形で私は言った。
「今、娘さんが、あなたが豆を何粒食べたとかいろいろ言うのは、昔からあなたが娘さんに言っていたことをそのまま返しているのではないかしら?」

　彼女はハッとした顔で言った。
「そう、そうです。私、娘が小さい頃から栄養とか考えて、食べ物には厳しく言ってきました。そういえば、娘のあのカン高い声、言い方、私とそっくりです」。
「あなたはきっと一生懸命、娘さんを〝育て〟たと思ってるでしょう。それは確かにそうだけれど、あなたの目は本当に娘さんに向かっていたのかしら。世間とか、仲の悪い夫とその親族とかがあなたの目の中にあって、そっちに向かって負けたくなかったから、とにかく子どもを〝完ぺき〟な人間にしたいと、そう考えてきたのじゃないかしら。だとしたら娘さんは本当につらかったでしょうし、私に言わせれば、本当によくがんばってきたわねと言ってやりたいほど。その上、拒食・過食をのりこえて、親に抗議する力も身につけた、本当にエライ娘さんですよ。問題はあなたよね。あなたもさみしかったんだよね」
ーー彼女は泣き出した。泣いている間、じっと待つしかなかった。待ちながら私は、この女性のこれからの生き方を共に考えようと思った。